はてな≒市民社会――僕自身の捉え方
- エントロピーの増大と崩壊、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトからはてなを考える。―はてなダイアリー正式版公開2周年に寄せて (香雪ジャーナル 3/13)
- 一事例、あるいは二年前のこと (キュウリのように落ち着いて 3/14)
- 続・ゲマインシャフトとゲゼルシャフトからはてなを考える…「ゲマインシャフトの再生産システムを作りたいと思っている*」とは。 (香雪ジャーナル 3/15)
- 続・続・ゲマインシャフトとゲゼルシャフトからはてなを考える。―拾遺 (香雪ジャーナル 3/17)
僕自身は、はてなを「ゲマインシャフト」と捉えることそのものが、非常に興味深いと感じています。なぜかというと、僕は「はてな」をはじめとするネットワーク上の集まり(「コミュニティ」と言わない理由は後述)はすべて、基本的に「ゲゼルシャフト」に近いものだと思っていた/いるからです。
とはいえ、僕は「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」という類型についてそれほど詳しいわけではないので、まず僕の基本的な理解を述べた上で、「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」と関係づけていきたいと思います。僕の基本的な理解とは、(前近代的な)共同体と(近代的な)市民社会という対比を基礎とするものです。
前近代的な共同体とは、与えられてしまったものに強く縛られ、それ以外の可能性が与えられないような関係のことを指します。生まれながらにして住む地域や職業がすべて決められ、各自の意思によってそれを変えることができないような場合はこちらです。原初的な農耕社会などはこれに当たります。一方の市民社会は、各個人の意思が優先される社会のことを言います。住む場所や職業を各個人が選択することができる、少なくともその機会が保証されている場合はこちらです。市民社会では、個人がある目的や理念に同意するという過程を経て、社会集団が形成されます。近代国家の基礎になるものとして「社会契約」という言葉がしばしば使われますが、これはその社会を選択しない可能性が用意された上で、各個人がその社会に属することを選択する、という状況が想定されているわけです。
非常に単純化した見方ではありますが、大元のところでは以上のような対立を考えています。
インターネットやウェブログというものは、基本的には市民社会的なものだと思います。なぜなら、インターネット上では血縁や地縁の束縛は非常に少なく*1、はてなユーザになることも、各ユーザの選択の結果だからです。
民主主義は、市民社会を(少なくともある程度は)基礎としなければあり得ないものです。言論の自由が保証され、社会の各構成員がそれぞれの意見を述べた上で、その集団がどうあるのかを(主に投票によって)決定していくという仕組みが民主主義だからです。
たとえばレッシグ教授*2や伊藤穣一*3さんのような人たちが「インターネットやウェブログは民主主義を支えるものである/ものになる」という議論をするのは、それらを、民主主義に欠かすことのできない自由なコミュニケーションや議論を行うためのメディア/ツールと捉えた上でのことだと思います。それらを介して人の集まりが生じる場合、基本的に、各自の意思によって集まった市民社会的なものとなるはずです。
はてなもまた、民主主義的な仕組みを取り入れている社会のひとつと考えられます。「はてな評議会」として、投票によってユーザ自身の意思によってはてなの進む先が決められてゆく仕組みは、その最たる例だと思います。その「評議会」に投票権を持つユーザを「はてなダイアリー市民」としているのは、スタッフの方々が「市民社会」の概念を強く意識しての結果なのだろうと、僕は理解しています。
はてなグループや、キーワードリンク、「おとなり日記」などの仕組みも、同じ興味を持つ人たちが互いを発見し、コミュニケートすることを促進するものと考えると、やはり血縁や地縁による共同体というよりは意思による市民社会に近いものとなります。キーワードや「おとなり日記」などによる出会いは、偶然によって近づけられた「地縁」と考えることもできますが、そこでコミュニケートすることを選択しない限り関係が生じることもないので、やはり市民社会的であると思います。
「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」との関連
「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」という対立はテンニースによって論じられたことで有名ですが、この「ゲゼルシャフト」の概念はヘーゲルが論じたもののようです。そのときは「ビュルガーリッヘ・ゲゼルシャフト」(die bürgerliche Gesellschaft)という用語だったようで、この「ビュルガーリッヘ」というのは「市民の/国民の/公民の」とか「庶民の」という意味をもつ形容詞です。「ゲゼルシャフト」は、第一義としては「社会」という言葉です。一方の「ゲマインシャフト」(Gemeinschaft)は、第一義としては「共同体」が使われます。
英⇔独辞書でそれぞれの語を調べてみると、Gesellschaft に対応する英語にはassociation(組織)、company(仲間/会社/組合)、society(社会)がありますが、同時に community(共同体)も入っています。一方、Gemeinschaft には community は入っていますが society という語は入っていません。「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」という対立は、辞書的に見ても「共同体と社会」と理解してほぼ差し支えないことがわかります。さらに、テンニースの Gemeinschaft und Gesellschaft という本の英語版タイトルが Community and Civil Society (『共同体と市民社会』)であることを見ても、「ゲゼルシャフト」が「市民社会」と強く関連していることがわかります。
「ゲマインシャフト的価値」について
d:id:yukattiさんの議論では、宮坂純一さんの議論を受けるかたちで述べられていますので、宮坂さんの議論*1を考えてみます。宮坂さんはテンニースの議論として、「血族愛・近隣愛・友愛による全人格的な融合・愛着・信頼こそがゲマインシャフトの本質」であり、一方の「ゲゼルシャフトの特質をなすものは、孤立であり、利益的結合であり、合理精神に基づく契約」であるから「その組織特有の目的に照応するかぎりでの人格部分だけ関係しあうこととなり、その結びつきは断片的でゆるく、本質的には疎遠とならざるをえない」と定義しています。
しかし、市民社会でもまた愛着や信頼は生まれうるはずだと考えます(「全人格的な融合」はないかもしれませんが)。たとえば「人権を守る」ことに命を賭けている人がいるとして、それは合理的であるからなのですが、そこにまったく愛着がないとも言えません。ある共通の理念や目的を持って集まった人たちの間に愛着が生じた瞬間、その人たちが前近代に遡行するわけではないと思います。王権支配から自由を勝ち取ったフランス革命の合言葉は「自由、平等、博愛」でした。
ただ、それでもなお習慣的愛着がゲマインシャフトに強く結びついているということも否定しがたい部分があります。「ゲゼルシャフトで失われがちなそれらを、ゲゼルシャフトから学ぼう」というような表現の仕方が理解しやすいのであれば、それを一概に否定するものではありません。「ゲゼルシャフトは希薄な人間関係を生む」という因果関係を必然と捉えるならば、「愛着を生むゲゼルシャフト」という捉え方を理想像とするのもアリだと思います。
しかし、「希薄な人間関係を生み出すゲゼルシャフトは、理想的なゲゼルシャフトではない」と捉えるとき、「より理想に近いゲゼルシャフト」を目指すことが可能になります。「より理想に近いゲゼルシャフト」とは、愛着や信頼を生み出しうるゲゼルシャフトのことです。その場合にゲマインシャフトとゲゼルシャフトとを分かつものは何なのか? というと、そのカギは個人の意思であると思います。
資本主義について
個人の自由を尊重する市民社会では、個人の所有が保護され、それらの交換を自由に行う*2ことができます。これが資本主義経済の原則になっているのですが、こうした経済のあり方では、財産を多く持っている人間が勝ち続けることになり、結果として不平等な社会になる、ということがしばしばあります。また、そういう「取引」が行われる中で人間関係が疎遠になってゆくという結果も現れてきます。
しかし、市民社会の本質には、「自由」とともに「平等」という理念も掲げられています。この理念によって、市民社会においては、あまりにもひどい不平等も是正されるべき、となります。
ただし、ここのところは非常に微妙な問題で、対立する可能性もある*3ので、市民社会あるいはゲゼルシャフトを悪者としつつゲマインシャフトに理想を見る、というアプローチから、何か得るところがあるかもしれないとは思います。しかしその場合にも、市民社会の理念は存続されなければならないだろうと思います。
はてなは市民社会か?
先ほど、「はてなユーザになることは各個人の選択の結果であるから、はてなも市民社会のひとつである」と言いました。しかし、これには反論の余地があるかもしれません。たとえば以下のような立場が考えられます。
「私ははてなのサービスを利用したいからユーザになることを選んだのであって、必ずしもはてなユーザ同士の関係の中に参加したいと思ったからではない。だから、私と誰かがはてなの中で『近く』なったのは、偶然の結果でしかない」
このような場合、そもそもはてなが共同体/社会なのかどうかもわからなくなりますが、仮にそうであるとして、はてなは共同体/ゲマインシャフトなのでしょうか。
これに近い例として、国家を考えてみたいと思います。僕は日本に生まれましたが、僕の意思でそうなったのではありません。このことはかなり重要で、国家は少なからず地縁的な共同体という側面を持っていることは事実として認めなければならない部分だと思います。なので、はてなをゲマインシャフトであるとする見方を否定するわけではないし、僕自身もそう捉えてよいかもしれないと思う部分はあります。
ただし、はてなのシステムや運営方針、雰囲気などについてユーザが意見を言うならば、その人ははてなという社会に個人として参加したということになりますし、何も言わずにはてなを去るとしても、その自由ははてなによって認められているわけです。何も言わずにはてなを利用し続ける人は、難しいところですが、はてなという社会を受け入れているものと見なしうると思います。選挙に行かない人は、選挙結果を投票者に委任したとみなされる、という感覚に近いでしょうか。
「個人の顔が見える全人格的な関係」というのは、多分に市民社会的な要素であると思います。個人の記名性を前提とした議論というのは、むしろ近代的社会に属するもので、匿名性はむしろ「農民」などという役割でひとくくりにされる前近代的な共同体に近いものを感じさせます(ただし、2chについては機能的な結びつきも強いので複雑です)。集団の規模は、必ずしも両者の境界を作り出す要素とはなりません。
「はてな≒市民社会≒ゲゼルシャフト」という僕の見方については、ひとまず以上です。ほかにも、はてながどのようなかたちを目指すべきなのか、とか、2chはどうなのか、とかとか、色々と考えるべきことはありそうですが、それはまたの機会にしたいと思います(あるのか?)。
最後に、id:yukattiさんによる「はてな≒ゲマインシャフト的」という見方に対して、僕が思い当たったフシも多分にあり、だからこそ非常に興味深い部分を感じたことは事実で、その捉え方を誤りとしたいわけではないということを付記します(僕自身の中にも揺れがあります)。ただ、市民社会が必ずしも疎遠な人間関係を生むばかりではない、ということを感じて頂きたいとも思ってはいるのですが、理想としている状況はほぼ同じ姿を共有しているとも思うので、単に表現上の違いということかもしれません(「いちばん素直な(かつ素朴な)解釈だと」という節で述べられている「ゲゼルシャフトの要素を十二分に取り入れたポスト・モダンなゲマインシャフト」という姿など)。