読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

はてなは市民社会か?

先ほど、「はてなユーザになることは各個人の選択の結果であるから、はてなも市民社会のひとつである」と言いました。しかし、これには反論の余地があるかもしれません。たとえば以下のような立場が考えられます。

「私ははてなのサービスを利用したいからユーザになることを選んだのであって、必ずしもはてなユーザ同士の関係の中に参加したいと思ったからではない。だから、私と誰かがはてなの中で『近く』なったのは、偶然の結果でしかない」

このような場合、そもそもはてなが共同体/社会なのかどうかもわからなくなりますが、仮にそうであるとして、はてなは共同体/ゲマインシャフトなのでしょうか。

これに近い例として、国家を考えてみたいと思います。僕は日本に生まれましたが、僕の意思でそうなったのではありません。このことはかなり重要で、国家は少なからず地縁的な共同体という側面を持っていることは事実として認めなければならない部分だと思います。なので、はてなをゲマインシャフトであるとする見方を否定するわけではないし、僕自身もそう捉えてよいかもしれないと思う部分はあります。

ただし、はてなのシステムや運営方針、雰囲気などについてユーザが意見を言うならば、その人ははてなという社会に個人として参加したということになりますし、何も言わずにはてなを去るとしても、その自由ははてなによって認められているわけです。何も言わずにはてなを利用し続ける人は、難しいところですが、はてなという社会を受け入れているものと見なしうると思います。選挙に行かない人は、選挙結果を投票者に委任したとみなされる、という感覚に近いでしょうか。

「個人の顔が見える全人格的な関係」というのは、多分に市民社会的な要素であると思います。個人の記名性を前提とした議論というのは、むしろ近代的社会に属するもので、匿名性はむしろ「農民」などという役割でひとくくりにされる前近代的な共同体に近いものを感じさせます(ただし、2chについては機能的な結びつきも強いので複雑です)。集団の規模は、必ずしも両者の境界を作り出す要素とはなりません。

「はてな≒市民社会≒ゲゼルシャフト」という僕の見方については、ひとまず以上です。ほかにも、はてながどのようなかたちを目指すべきなのか、とか、2chはどうなのか、とかとか、色々と考えるべきことはありそうですが、それはまたの機会にしたいと思います(あるのか?)。

最後に、id:yukattiさんによる「はてな≒ゲマインシャフト的」という見方に対して、僕が思い当たったフシも多分にあり、だからこそ非常に興味深い部分を感じたことは事実で、その捉え方を誤りとしたいわけではないということを付記します(僕自身の中にも揺れがあります)。ただ、市民社会が必ずしも疎遠な人間関係を生むばかりではない、ということを感じて頂きたいとも思ってはいるのですが、理想としている状況はほぼ同じ姿を共有しているとも思うので、単に表現上の違いということかもしれません(「いちばん素直な(かつ素朴な)解釈だと」という節で述べられている「ゲゼルシャフトの要素を十二分に取り入れたポスト・モダンなゲマインシャフト」という姿など)。