「ゲマインシャフト的価値」について

d:id:yukattiさんの議論では、宮坂純一さんの議論を受けるかたちで述べられていますので、宮坂さんの議論*1を考えてみます。宮坂さんはテンニースの議論として、「血族愛・近隣愛・友愛による全人格的な融合・愛着・信頼こそがゲマインシャフトの本質」であり、一方の「ゲゼルシャフトの特質をなすものは、孤立であり、利益的結合であり、合理精神に基づく契約」であるから「その組織特有の目的に照応するかぎりでの人格部分だけ関係しあうこととなり、その結びつきは断片的でゆるく、本質的には疎遠とならざるをえない」と定義しています。

しかし、市民社会でもまた愛着や信頼は生まれうるはずだと考えます(「全人格的な融合」はないかもしれませんが)。たとえば「人権を守る」ことに命を賭けている人がいるとして、それは合理的であるからなのですが、そこにまったく愛着がないとも言えません。ある共通の理念や目的を持って集まった人たちの間に愛着が生じた瞬間、その人たちが前近代に遡行するわけではないと思います。王権支配から自由を勝ち取ったフランス革命の合言葉は「自由、平等、博愛」でした。

ただ、それでもなお習慣的愛着がゲマインシャフトに強く結びついているということも否定しがたい部分があります。「ゲゼルシャフトで失われがちなそれらを、ゲゼルシャフトから学ぼう」というような表現の仕方が理解しやすいのであれば、それを一概に否定するものではありません。「ゲゼルシャフトは希薄な人間関係を生む」という因果関係を必然と捉えるならば、「愛着を生むゲゼルシャフト」という捉え方を理想像とするのもアリだと思います。

しかし、「希薄な人間関係を生み出すゲゼルシャフトは、理想的なゲゼルシャフトではない」と捉えるとき、「より理想に近いゲゼルシャフト」を目指すことが可能になります。「より理想に近いゲゼルシャフト」とは、愛着や信頼を生み出しうるゲゼルシャフトのことです。その場合にゲマインシャフトゲゼルシャフトとを分かつものは何なのか? というと、そのカギは個人の意思であると思います。

資本主義について

個人の自由を尊重する市民社会では、個人の所有が保護され、それらの交換を自由に行う*2ことができます。これが資本主義経済の原則になっているのですが、こうした経済のあり方では、財産を多く持っている人間が勝ち続けることになり、結果として不平等な社会になる、ということがしばしばあります。また、そういう「取引」が行われる中で人間関係が疎遠になってゆくという結果も現れてきます。

しかし、市民社会の本質には、「自由」とともに「平等」という理念も掲げられています。この理念によって、市民社会においては、あまりにもひどい不平等も是正されるべき、となります。

ただし、ここのところは非常に微妙な問題で、対立する可能性もある*3ので、市民社会あるいはゲゼルシャフトを悪者としつつゲマインシャフトに理想を見る、というアプローチから、何か得るところがあるかもしれないとは思います。しかしその場合にも、市民社会の理念は存続されなければならないだろうと思います。

*1:共同態としての日本企業

*2:この場合、ルールには則らなければなりません。「ルールに則った自由」とは何なのかは、省略(というか能力が追いつかない……)。

*3:この点については、国家の場合だと、基本的人権を尊重するという意味で「平等」であるとされます。また、この「平等」とは「機会の平等」であって「結果の平等ではない」と説明される場合もあります。