はてな≒市民社会――僕自身の捉え方

僕自身は、はてなを「ゲマインシャフト」と捉えることそのものが、非常に興味深いと感じています。なぜかというと、僕は「はてな」をはじめとするネットワーク上の集まり(「コミュニティ」と言わない理由は後述)はすべて、基本的に「ゲゼルシャフト」に近いものだと思っていた/いるからです。

とはいえ、僕は「ゲマインシャフトゲゼルシャフト」という類型についてそれほど詳しいわけではないので、まず僕の基本的な理解を述べた上で、「ゲマインシャフトゲゼルシャフト」と関係づけていきたいと思います。僕の基本的な理解とは、(前近代的な)共同体と(近代的な)市民社会という対比を基礎とするものです。

前近代的な共同体とは、与えられてしまったものに強く縛られ、それ以外の可能性が与えられないような関係のことを指します。生まれながらにして住む地域や職業がすべて決められ、各自の意思によってそれを変えることができないような場合はこちらです。原初的な農耕社会などはこれに当たります。一方の市民社会は、各個人の意思が優先される社会のことを言います。住む場所や職業を各個人が選択することができる、少なくともその機会が保証されている場合はこちらです。市民社会では、個人がある目的や理念に同意するという過程を経て、社会集団が形成されます。近代国家の基礎になるものとして「社会契約」という言葉がしばしば使われますが、これはその社会を選択しない可能性が用意された上で、各個人がその社会に属することを選択する、という状況が想定されているわけです。

非常に単純化した見方ではありますが、大元のところでは以上のような対立を考えています。

インターネットやウェブログというものは、基本的には市民社会的なものだと思います。なぜなら、インターネット上では血縁や地縁の束縛は非常に少なく*1、はてなユーザになることも、各ユーザの選択の結果だからです。

民主主義は、市民社会を(少なくともある程度は)基礎としなければあり得ないものです。言論の自由が保証され、社会の各構成員がそれぞれの意見を述べた上で、その集団がどうあるのかを(主に投票によって)決定していくという仕組みが民主主義だからです。

たとえばレッシグ教授*2伊藤穣一*3さんのような人たちが「インターネットやウェブログは民主主義を支えるものである/ものになる」という議論をするのは、それらを、民主主義に欠かすことのできない自由なコミュニケーションや議論を行うためのメディア/ツールと捉えた上でのことだと思います。それらを介して人の集まりが生じる場合、基本的に、各自の意思によって集まった市民社会的なものとなるはずです。

はてなもまた、民主主義的な仕組みを取り入れている社会のひとつと考えられます。「はてな評議会」として、投票によってユーザ自身の意思によってはてなの進む先が決められてゆく仕組みは、その最たる例だと思います。その「評議会」に投票権を持つユーザを「はてなダイアリー市民」としているのは、スタッフの方々が「市民社会」の概念を強く意識しての結果なのだろうと、僕は理解しています。

はてなグループや、キーワードリンク、「おとなり日記」などの仕組みも、同じ興味を持つ人たちが互いを発見し、コミュニケートすることを促進するものと考えると、やはり血縁や地縁による共同体というよりは意思による市民社会に近いものとなります。キーワードや「おとなり日記」などによる出会いは、偶然によって近づけられた「地縁」と考えることもできますが、そこでコミュニケートすることを選択しない限り関係が生じることもないので、やはり市民社会的であると思います。

*1:言語的な束縛はありますが、ある言語の範囲内ではやはり少ないはずです。

*2:http://blog.japan.cnet.com/lessig/

*3:http://joi.ito.com/jp/